昭和五十四年六月十日 朝の御理解                                                                                                         御理解 第八十三節                                「大蔵省は人間の口を見たやうなもので其口に税金が納まらぬ   時四分板張った戸一枚で寝ては居られぬ何所の太郎やら次郎   やら分らぬやうになろうぞ」                                                                                 『火の車 造る大工は居らねども 己が造りておのが乗るなり』と、いうような歌がありますよね。
 火の車を造る大工はおらんのだけども、自分自身の心が作ってるんだ、というわけ、ね。地獄を。
 悩みがある、苦しい。それはね、よくよく考えると、自分がそういう、悩まなければならない、苦しまなければならない素は造っておる、と、いうことなのです。
 『地獄の沙汰も金次第、極楽の沙汰は金次第』と、いうわけにはいかんのだけども、先づ、地獄から解放される、と、言うのなら、お金があればできることですよね。
極楽と言うのは金次第ではいかん。けれども、それこそ、地獄の苦しみ、というような苦しみから、只、逃れるだけなら、言わば金次第で出来る、と、こういうこと、ね。私共は、もう、言うならば、本当の極楽世界、いや、合楽世界で住まわせて頂くことをめざして信心をさせて頂いとるわけだす。
 私は、大蔵省とか税金とか、と、言ったような表現をここでしてございますけれども、これが、言うなら、天地に対する還元。天地に対する税金とでも申しましょうかね、天地の御恩恵を受けて、こうしてお生かしのおかげを頂いておる。その神恩報謝の心というものが、いうならば、有難うございます、と言っておるだけではなくって、それが還元になってくる。天地に返礼をする、お返しをする、そういう生き方からおかげが頂かれるようになるのです。
 『どこの太郎やら次郎やらわからん」。これは、私が知り得ておるだけの事なんですけれども、おかげを頂いておる霊、又ハ合楽の信心に御縁を頂いておる霊達の、言うならば、霊の生態と言うか、助かっていっておられる様子というものを、私が感じます時にね、もう本当に、それこそ限りない霊、それこそうじ虫のようにうようよと、ね。もう、この世あの世というが、霊にとっては、もう、この世ですよね、私共があの世と言うのはこの世、ね。
 霊の世界というものはこんなものだろうか、と諦めかけておる霊が沢山あることです。それこそ、どこの次郎やら太郎やらわからないで、只、地獄の、まあ、仏教的に言うならその苦しみの霊、言うならシダゴダの霊、そしてそれをね、この世というところはこんなものだと、ね。霊がですよ、ね、霊の世界とはこんなものだと、もう、言うなら、果ててしまっておるような霊が、沢山あることです。
そこにです、お徳を受け力を受けしておる霊達が、もう、厳然としてね、霊の世界。仏教的に言うなら、極楽の世界とでも言いましょうかね、言うならば自由のきく世界、言うなら喜びの世界、安心の世界、ね、そういう光明世界に住んでる霊。
 『あに世にも持って行けこの世にも残しておける』と言われるが私共が本当に、この世で様々な難儀なら難儀を通して入信のおかげを頂いた。おかげ頂かんならん、と、思うて、一生懸命参っておるうちに信心がわかった。言うならば、真の心からの還元も有難く勿体なく出来るようになった、そういうのが、積もり積もって徳となって、あの世で言うならば喜びの霊、安心の霊、としての霊ながらの助かりを得ておる、ということです、ね。私は今日は、ね、大蔵省ぢゃなくて、天地に対する税金が納まらないと、というふうに聞いて頂きたいです。
 天地に対する還元が出来ていないとです、ね、どこの次郎やら太郎やら、わからないような、もう、それこそ何とも言いようのない、ま、言うならば、うじ虫がうようよしておる、あれを想像されたらいいです、ね。それを、そんなもんだと思い果ててしまっておる。
 現世にある時、真の信心をしてお徳を積んで力を得て、喜びをあの世にもっていっておる霊達の霊の世界、それを、ま、光明世界と申しましょう、ね。
私共、現世におきましてもそうですよね、信心の世界と言うのは、光明世界です、ね。だから、信心しておるから、光明世界に住んでおる、ということぢゃない。只、我情我欲だけの信心では、光明世界とは言へない。ま、言うならば、我情我欲をはずして、ね、真の神徳の中に生かされてある喜びがわかった時に、あなたは光明世界に住んでおるということ。
 『我身は神徳の中に生かされてあるんだ』もう本当に、一分一厘まちがいのない神様の御働きの中にあるんだな、と。
 今日の御祈念中に『縄でしばられて後に手を回されて、柱のようなものにくくりつけられておる。そして、こうやってそれに、柱によりかかってから足をバタバタさせておる様子』を、頂いたんです。
 そういう人が世の中にはどの位あるやらわかりません。それこそ『火の車 造る大工はおらねども己が造りて己が乗るなり』である。
 自分の心から、それを、信心を手篤う段々頂いておってもです、ね、言うならば、解釈が小さい、ね、小さい信心、ね。
 生臭気を食べてはならん、という宗教があるとする、と、生臭気を食べた、あっ食べたから自分なもう極楽行きはできんだろう、と思う心は、自分で自分の心を縛ったようなものですよね。
 自分で自分の心を縛って、それこそ足をバタバタして苦しんでおる、そういうところを、合楽理念をもってすると、「限りない広い十全の教え」と、言われるのですから。
 言うならば、例えば、昨日の御理解で申しますとね、三味線のバチということね、これは、金光教では罰、と、いうことは申しませんけれども、他の宗教では罰があたる、とかね、罪とか罰とか申しましょう、ね。その罰があたって、言うなら縛られて苦しんで居る、窮屈な思いをしておる、という霊も、又ハ、人間も沢山あるわけです。
 合楽の信心を聞いて心が開けたら、「あっそうぢゃった心が反対に、お礼を申し上げねバならないような事に、自分で自分が苦しんでおる。」。その辺のところが合楽理念が十全の教えだと。和道十全と言うのは、そういうところだと思うです。解放される、嬉々として喜びの活動ができる。ね。その上にです、神恩を悟り報謝の生活をさせてもろうて、天地へ対するところの還元が出来ていく。
 これは、宗教というものは、やはり、一応はそういうところを説きますね。どこへ行っても、お賽銭というのがありますでしょうが、宮、寺さんに参ってもお賽銭箱というのがあります。あのお賽銭は だから、お賽銭は、さっちせにゃいかんですばい。もう、たとえ僅かであってもそれが積もり積もって天地へ対する、だから、お寺さんに参ってもお宮さんに参っても、お賽銭箱があるところには、やっぱりお賽銭、それは、そこに天満宮さんがおまつりしてあるなら、天満宮さまにお供えするのぢゃない、天地の神様へ還元するのです。ここの、お賽銭箱でもやっぱりそうです。ね。お初穂は金光 「おかげ頂いてありがとうございます。」と、言うてお礼に出てくる。金光大神、お取次してくださる、その金光大神への手みやげ代わりとおっしゃる、ね、行きどころがちがう。
勿論、それを、取次の働きによって浄化される。そして、それが、天地へ対する還元、ということにも、ちゃんとなるような仕組みになっておりますけれどもね。お互い、天地への還元をおこたってはならぬ。それをおこたっとるとです、それこそ、四分板一枚では寝られまいが、どこの次郎やら太郎やらわからん、それこそウジ虫のように、もうそれこそ、これは、んなら、人間世界で言うてもいいですよね。もう、『この世は苦の世だ苦の世界だ』と、言うふうに決めこんでおる人達は、同じようなことが言えるんぢゃないでしょうか。
その苦しみから解脱する。その苦しみから逃れられる手立てが、合楽理念には、もう、こと細かに説いてるんです。そして今まで、言うならば、これは罪だ、とか、お粗末だ、とか、ご無礼だ、とか、思うておった事がです、ね。明らかに、お礼を申し上げねばならない、といったような事が、信心の、勿論、順序手立てをもってするとお礼を申し上げねばならない、いや、その罰があったおかげでよい音色がでる、と、言うような働きにもなってくるんです。
けれども、その術を知らない多くの、言うなら過去の宗教では、そこの救いの手立てがなかった、ということです。言うなら、うじ虫のように、うようよしとる中からでも、救い上げることができる。
 今日は、北野の上野先生ところの霊祭が式年祭がございますわけですけれども、これなんかは、やはりね、沢山なお礼をする、日頃しない事をさせてもろうて、言うならばする、ということは、霊様のために天地へ対する還元をするようなものだ、と思うです、ね。
だから霊が助かることができるのです。ね。霊が喜ぶことが出来るのです。それは、本当におかげ頂いとる霊、も、それは本当に畏れ入りますよ、いつの場合でも。
 夕べ、私の方の家内の父のお立ち日でございましたから、もう、五十何年になりますけれども、言うなら、式年祭というのぢゃありませんけれども、お立ち日だから、家内がいろいろ、生前父の好きであったようなもののお供えを、いろいろして、もう、これは、必ずですけれどもね、父の霊祭の時には、枇杷のお供えをするんです。
 枇杷のお供えと言へば、私が福岡で、もう、いよいよ逼迫した生活をしておる時分に、丁度父の、何十年か前の昨日です、どうかして父の好きであったという、もう、これだけは昔から、枇杷のお供えだけはさせて頂きよったから、と、思うけどお金がないわけです。
まあ、その時に五円か十円かやったでしょうか、あるけれども、とてもそんなこつぢゃ買えません。果物屋の店頭までいったけれどもところが、枇杷をこうやって、一寸きづがあるとか何とか、と言うのが、横ぞに皿盛にしてあります。だから、そのわけを言うたら、よかつからえって、から、分けてもらった事があります。そして、それをお供えさせて頂いた。その時、私、初めて霊との話合いというのを、が、出来たのは、その時からでした。ね。
 今から考えますと、ま、天地金乃神様の御演出でしょうけれどもね、そういう、真心一心、というわけ、ね。それが信心なんです。
 昨日、お供え物を買いに行く、と言いよるところへ 丁度、ここの順子先生のお友達がお見舞いに来てから、お見舞いにもって来たのが、枇杷を二箱か、持って来た。だから「今日の霊様にお供えしてください。」と、言うて持って来た。もうう本当に、家内が感激してから、もう神様のまちがいない働きには、おそれ入ってしまう、「霊が喜んでおる証拠。」と、言うて昨日、喜びましたけれどもね。
 本当にそれは、信心の世界、霊の世界、神様の世界、その辺のところの調和のとれた生き方を、日々させて頂いておるとね、そういう、それこそ昨日、ある方が今度、新築をされるので、「何か一筆書いてくれ。」と、言うて長い色紙を持って見えたから、書かせて頂いたんですけれどもね、 “信心のよろこびとおどろき”と、書いて差し上げた。
信心のよろこびとおどろき。
 これがね、日に日に新たな信心させていただいておる、と、日々おどろかずにおれない様に、まちがいのない働きが受けられる。只信心のよろこびだけではいけん。おかげ頂く喜びだけではいけん。
もう畏れ入ってしまう、これがおどろきです。信心のよろこびとおどろきを、日々感じられるような信心、ね。その上にです、言うならば、ね、日々、天地に対するところの還元が出来てくる、ね。
 例へば、もう、医者が助からない、という病人が、ね、ここではそういう例がたくさんあります。試験なら試験でも、とても通るはずない、と、言ったような時に裏口から金をね、言うなら、裏口から入学するという金を、その金を神様の方へもって来た。天地に対する還元になった。おかげで通らんはずのが通った。そういう例はいくらもあります。もう医者が助からない、という病人が言うならば、もう本当に、生命を頂くのだから、と言うて、思い切った金額のお供えをさせて頂いて、おかげ頂いた、という例もいくらもあります。
これなんかはね、言うならどういうことでしょうかね。それこそ地獄の沙汰も金次第、というのぢゃないでしょうかね。助かることだけはたすかるです、ね。
 極楽行は金次第ぢゃいけません。そりゃ、日頃の信心、信心の徳を積んどかなければでけませんけれどもね、もう、いよいよ、そこに死が待っておる、とか、難儀苦しい時にです、そういう、思い切った還元ができることによって、これは天地が受けて下さる証拠です。出来ないはずのことが出来、助からぬはずのものが助かる、と言うようなおかげになってきます。
今日は、私は大蔵省に税金が納まらん、と、どこの次郎やら太郎やら、という表現をです、ね、天地に、言うならば、天地へ対する税金が納まらない、と、天地へ対する還元ができない、と、土地は痩せていってしまう。
天地へ対する還元が出来ないと、どこの次郎やら太郎やら、言うならば、あの世へ行ってそれこそ、もう、それこそ、うじ虫のような生活に入らなきゃならない。ね。それを、信心のことわけもわからん霊達は、もうこの世とはこんなもんだ、と思うて諦めておるようなものが、もう、どれだけあるやらわからんです。この世でもそうでしょうが、現世でもそうでしょうが、もう、この世は苦しいものだ、と決めこんでしまっておる人が沢山あるでしょうが。もう、「この世は苦の世だ苦の世界だ」と、自分で自分を縛ってしまって、足だけバタバタさせておる、と言うような人が又ハ、霊がどれだけあるやらわからん。
 我が心次第で、言うなら、合楽理念をもってすると、その辺のところの助かりを得る手立て、又ハ、お徳を積んでいくためにはこういう、言うならば、有り方、ね。それこそ、有難く勿体なく還元が出来れる生き方というものが、身についてくる。そこに、心はいつも安らいでおる、ね。言うならば、心が助かっておる。
そういう生活を、の、出来れるおかげを頂かなければならない、ね。
 大蔵省と天地、税金を還元、どこの太郎やら次郎やらわからんという、それこそ、何ぢゃかんぢゃわからんような苦しみの霊というふうに置き換えて聞いて頂きましたね。
           「 どうぞ 」